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革命と身体と言葉  -アンドレイ・プラトーノフを中心に-

久保 久子

1.はじめに
作家アンドレイ・プラトーノフを語る際、その独特な身体感覚についてはよく指摘され、哲学的、宗教的な面からさまざまな考察がなされてきた。(1)しかしそのようなアプローチのみでは、真の理解には不十分ではあるまいか。例えば彼の文体や作品のモチーフに関しては、彼自身の哲学や思想だけでなく、彼の生きた時間と空間、すなわち革命前夜から第二次世界大戦にかけてのソビエト-ロシアという要因が大きな役割を果たしている。彼が作家としての自己を形成した時期と、ソビエト社会主義共和国連邦が国家としての自己を形成した時期は、完全に一致しているからである。同じ要因が彼の身体感覚に関しても働いていないだろうか。本論はプラトーノフの身体感覚を、ソビエト連邦という国家の自己形成期という面から考えようとする試みである。

2.「エーテル機械」と「土台穴機械」
まず最初に、現代思想の紹介者であり身体論の専門家でもあるヴァレリー・ポドロガの、『魂の宦官』という論文に着目したい。(2)ポドロガは、プラトーノフの作品世界を諸機械の組み合せであるとする。そのうち大きなもののひとつが生命機械、あるいはエーテル機械であり、何もない空間からエネルギーを取り出す機械である。人間は自然の不条理に勝利する。すべての法則は人間を中心に動き、死んでいる物質と死んでいる人間に新たな生命が与えられる。ここでは労働は、生きた人間の身体を消費させる悪であり搾取である。エーテル機械という命名は、プラトーノフの作品の一つ『エーテルの道』(1926)からのものだろう。この作品は、電子に餌をやり、豚や牛を飼うように物質を養育、繁殖できるエーテルの道をめぐって三代の科学者が奮闘する物語である。

もうひとつが死の機械、あるいは土台穴機械であり、個を全体に融合させる。すなわち、個別の身体はあとにくるもののために自らのすべてを消費し、身体は全体へと溶解してしまう。死の前では個々人の自我が完全に無力であるがゆえに、死との戦いに際しても個々人の自我は意味を持たない。したがってこの機械は個々の人間の身体の境界を融解させ、孤立した存在を抹消することによって、死を克服しようとする。土台穴機械の命名は、言うまでもなく同名の小説によるだろう。プラトーノフの中篇『土台穴』(1939-1930)では、全プロレタリアートの家を建てるための土台穴を、労働者たちが際限なく掘り続けている。土台穴は拡張に次ぐ拡張で、その底に孤児ナースチャの亡骸を納めたあとも広がりつづける。ポドロガによれば、プラトーノフの空間はこれらの機械が同時に作用することによって膨張を続け、虚無化の空間、拡散の空間、遊牧的空間となる。

さて、この分析は現代思想からのものと思われるいくつかの用語を使って行われているが、いったん「諸機械」などの用語をはずしてみるとどうなるだろうか。無秩序な自然に人の力を加えて制御し、人と物に真の生命を与えるという方向性と、独立した個であることをやめ、溶解し、個としては消えてしまうことを望む方向性――この二つの異なる力の相互作用は、プラトーノフのみならず、革命前夜から20年代にかけて多くの文学作品に存在したのではないだろうか。

3.起重機=塔
上に挙げたような二つの方向性は、例えば、一連のプロレタリア詩人たちにおいて特に顕著である。

アレクセイ・ガースチェフの『起重機』という作品を見てみよう。労働者である「我ら」は石と鉄の町を台架にして、巨大な起重機を作る。起重機は成長し、大胆になり、最初は沈没した船の引き上げなどをしていたものがヒマラヤ山脈をインドの沼沢地へ投げ落とすほどになる。

 バビロンの建設者たちに向かい、百世紀越しに叫ぼう。君たちの高揚が再び炎と煙に息づいている、鉄の奉献台が天高く上げられ、労働の誇り高き偶像が再び猛り立っていると。

 我らは動かす、我らは我らの故郷、地球を動かす。

 我らは起重機を地球の上でなく 地球と並べて据え付け、磁気の流れでエーテルに固定しよう。

 おい、おとなしい生命の消費者たちよ!見えないのか、地球の置かれ方がまずいのが、ぎこちなく軌道を回っているのが?我らは地球を勇敢な誇り高きものにし、自信を与え、新たなる意思で満たすだろう。(3)

 起重機は世界に新たな生命を与える。この起重機はバビロンの塔と同じく、人間の力の象徴、人間から創造主への挑戦状である。しかし起重機=塔には別の一面がある。同じ作者の『塔』という作品を見てみよう。

絶望の苦しみに手や足は折れ、人々は穴へ落ち、大地は彼らを容赦なく貪り食った。

初め死者たちは数えられ、埋葬の歌が歌われた。その後は別れの歌も、言葉もなく死んでいった。そこ、塔の下で、名もない、だが栄誉ある塔の労働者の群れが死んだ。

〔中略〕

再び何百万の労働者たちが塔へと列をなして進む。もう一度地球の端から端までを労働の鋼鉄の奔流が駆け、塔は巨大なメガホンのように、その流れを集める、コンクリートと土と金属の震える歌の中で。(4)

「塔」は地球に誇りと新たな意思を与えるはずのものであった。ポドロガの言う「生命機械/エーテル機械」である。だが人間の叡智の象徴であるはずの「塔」は、その力によって自然のくびきから開放してやるはずの労働者たちを、際限なく貪り食らい、成長を続ける。人々を穴へと吸い込むこの「塔」は文字通り「死の機械/土台穴機械」である。

そしてこの「死の機械」こそ、労働者である「我ら」の勝利を意味している。労働者たちはおのれの身体を失うことによって、新たな身体を得るからだ。以下は再び『起重機』からの引用である。

 起重機の張りつめた金属は熱くなり、燃えて、変貌した。起重機全体が溶け合って一体となり、自らの中に灼熱した金属の血を見出し、一つの怪物となった…両目と心臓と魂と意図を持った。(5)

起重機=塔は身体と化す。その建設のために死んでいった労働者たちの新たな身体となるのである。労働者たちは理想のために自らの生命を犠牲にするのではない。死すべき身体を捨て、起重機と一体化することによって、永遠の身体を得るのだ。

これらのことから、ポドロガの名づけた「生命機械/エーテル機械」と「死の機械/土台穴機械」の相互作用は、世界を拡散させるだけではないということが言えるだろう。二つの機械、二つの方向性は、最終的に新たな身体を作り出すものなのである。

プラトーノフ作品において新たな身体というモチーフは、例えば次のようにあらわれる。『チェヴェングール』(1926-1929)で、登場人物たちはチェヴェングールの町に「共産主義」を完成した――少なくとも、彼らはそう信じた。ところが住人たちの中に病人が出て、ボリシェヴィキたちは愕然とする。病人を前にして、チェヴェングールの責任者チェプルヌイは次のように考える。

チェプルヌィは誰よりも恥ずかしさを感じていた。彼はすでに、チェヴェングールでは財産が価値を失いプロレタリアートは固く団結しているという考えに慣れていた。しかし胴体はばらばらに生きている――そして力なく苦痛に打ち負かされている。この場所では人々はちっとも団結していない。だからコピョンキンもゴプネルも共産主義に気づくことができなかったのだ――共産主義は、いまだプロレタリアたちの胴体の間を埋める物質にはなっていなかった。(6)

「万国の労働者よ、団結せよ!」このスローガンに従い、身体と身体の間の空間は、何かによって埋められなければならない。この空間を埋めるのが「共産主義」であり、プロレタリアたちの胴体は、「共産主義」によってひとつになる。胴体と胴体の間の空間が完全に埋まれば、いかなる病気も不幸も入ってはこられない。にもかかわらず、病人がでてしまった――労働者たちの身体はまだ離れ離れに生きており、共産主義は完成していないのだ。

登場人物たちの考えは一見まったくのナンセンスに思えるが、ガースチェフの『起重機』を見るとき、彼らの抱いていたイメージを理解することができる。聳え立つ「塔」や「起重機」は新しき思想のシンボルであり、労働者たちの新しい身体であった。それと同じく、プラトーノフにおいて「共産主義」は、人々の新たな身体となるはずのものなのである。

4.機械と動物
一体になるのは労働者たちだけではない。ガースチェフにおいて起重機と労働者たちが一体化しているように、人と機械も一体となるべきものだ。1922年に出版されたプラトーノフの詩集『空色の深淵』中の「発電機」にはこのような一節がある。

我ら魂なく 神もなく 終わりなく働く

電気の炎が我らに別の生命を鋳造した

〔中略〕

我らおびえる者たち 生き、産み、愛してきた

されど我ら機械を作り、ひとたび鉄を蘇らせ

神の魂を殺すと

古き皮膚は我らより剥げ落ちた〔後略〕(7)

機械と人間が融合し新たな身体を得るというモチーフは、プラトーノフの初期作品や社会時評に特徴的である。しかし例えば1936年の『フロー』でも、主人公フローシャの夫フョードルは「電圧の強さを自分自身の情熱として感ずる性質」の持ち主であり、「昼間の別離の後にも妻を抱かぬまま、フョードルはしばらくの間、自分自身がマイクロファラードや迷走電流と化した。」(8)フョードルの場合「古き皮膚」はすでに剥げた状態で読者の前に現れるわけだが、このように状況や程度の差はあっても、プラトーノフ作品で革命や党に共感する人物は、多かれ少なかれ機械と一体化し、自己を溶解させてしまう能力を持っている。機械と一つになることにより、自然界を新たに組織し改造することと、個体の死を否定することが同時に可能となる。『チェヴェングール』の主人公アレクサンドルの場合、一体化の範囲は更に広い。幼いサーシャは道なりに続く塀を見れば、自分も壁と化して用もないのに立ち続けるような子供であった。その養父ザハールはボリシェヴィキの条件として、「すべてのものがおさまるような空っぽの心を持つ」ことを挙げている。(9)

更に、プラトーノフの考える同志たち、すなわち一つの身体を持つべきものたちの中には、人間と機械の他に動物たちも含まれている。例えば家畜について、『チェヴェングール』の登場人物たちは次のように考えている。

 「家畜だってすぐに自然に放してやるのさ」チェヴェングールの男(チェプルヌィ-久保)は答えた。「あれだってほとんど人間なんだから。家畜はただ、何千年も抑圧されたせいで人間より遅れちまったってだけだ。あれだって人間になりたいんだ!」(10)

  抑圧されたものとしての動物とその解放、というモチーフは、ここだけのものではない。『土台穴』でも、コルホーズにたったひとり残った日雇人夫、もっとも抑圧されたプロレタリアートは、鍛冶屋で働く熊であった。この熊は富農撲滅にあたり、誰が富農かを選別する権限を持つことになる。「死の機械」に組み込まれるのである。他にも、『チェヴェングール』のチェプルヌィには、共産主義が実現すれば「鳥たちは生き返った子供のように話し出す」というセリフがある。一見意味不明だが、鳥たちは一度死んで言葉を話すことの可能な新しい身体を手に入れ、子供のように片言をしゃべりだす、と解釈することもできる。

プラトーノフの動物たちに対するまなざしについては、事物の擬人化とまとめて民話からの影響がよく言われるが、(11)ここでは冒頭で述べたように、作者の生きた時代について考えてみる。この抑圧されたものとしての動物とその解放というモチーフも、プラトーノフ一人のものではない。たとえば、プラトーノフより4歳年下であり、オベリウのメンバーであったニコライ・ザボロツキーの物語詩『農業の勝利』(1929-1930)では、このモチーフが中心的役割を果たしている。(12)この作品は農業集団化に捧げられたもので、まず農民たちが、魂はどこにあるのかと論ずるところから始まる。兵士は魂の存在を否定する。しかし同じ頃、「動物たちのおぼろげな身体」が「自然の魂を御して自由な会話を行っていた」。動物たちは人間に虐げられ苦しんでいる。大地は富農によって痛めつけられていたが、その富農は馬車で連れ去られる。兵士は、夜半の嵐で木々の恐ろしいうなりが聞こえても、これは悪魔でも森の精でもなく嵐は嵐に過ぎないと言い、先祖たちの呪詛も意に介さない。兵士は牛や馬に自分の見た夢を語る。機械の神殿が酸素のレピョーシカを分配し、馬は分子のシチーを飲み、雌牛が元素のピローグを焼くというものだ。ちなみに人間たちはエーテルの牧場から歌を歌いながら降りてくるというから、これはまさしくポドロガの名づけた「エーテル機械」である。動物たちが兵士の話に取り合わないでいると、山の向こうから「大きな鉄の二階建て、鋳物の顔で全身炎に包まれた、自然との肉弾戦の君主」がやって来る。トラクターである。

すると森の彼方に

Aの文字の鈍いとどろきが響き始め

トラクターは鼻面で世紀を切り裂き

ごろごろと音を立て這い出した

そして弱りきった動物たちの群れは

塵と埃の中で倒れ

原初のまなざしで見つめた

新たにされた大地の顔を(13)

作品の終わりに科学とコルホーズが称えられ、旧時代の労働の象徴である「犂」は墓で蟲に食われている。「埃と塵の中で倒れ」と訳出した部分は упав во прахе и пыли であり 、прах とпыльは、しかばねとなって無に帰した、というイメージをともなっている。だからこそ、そこから見つめる動物たちのまなざしは浄化された原初のものとなる。ザボロツキーのある意味で牧歌的なユートピアへ参入するために、動物たちはやはり一度個体の死を経験しなければならない。ここにも「土台穴機械/死の機械」が働いているのだ。動物たちがそれまで生きていたのは「おぼろげな身体」であり、解放されコルホーズの一員となるためには、新たな身体を得なければならないのである。(14)

「エーテル機械」と「土台穴機械」は、相互作用するうち動物や機械やあらゆる事物を取り込んで、ただ一つの身体を作ろうとする。これはこれまで見てきた三者に共通しており、形成される一つの身体とは、塔や起重機であったり、コルホーズであったり、「共産主義」であったりした。いずれの身体も、ソビエト連邦という国家の建設によって生まれた願い、そして欲望であると言えるだろう。

5.まとめ
プラトーノフの作品では「エーテル機械/生命機械」と「土台穴機械/死の機械」の相互作用が作品世界をかたちづくる、というポドロガの指摘について、それが革命期のロシア・ソビエトの文学にある程度共通したものではないかという考えを提起し、例としてガースチェフとザボロツキーをとりあげた。ガースチェフにおいてもザボロツキーにおいても、「生命機械」と「死の機械」は相互に働き合って新たな身体を築き上げていた。その新たな身体こそ彼らの考える「共産主義」なのであり、プラトーノフの場合と同じであった。

ここで、プラトーノフを語る際に最もよく使用される、「存在の物質」という言葉を思い起こしたい。『土台穴』のボーシチェフは、仕事中に「真実」について考えてばかりいたので、勤めていた工場を解雇された。たまたま一夜を過ごした労働者たちのバラックで彼はこう言われる。

 

「お前の真実がどうしたってんだ!」最初にしゃべった方が言った。「お前は働いてない、存在の物質を体験してないのさ。思想ってのはそこから思い出すもんだ!」(15)
この部分を採用していない版もあるので、「存在の物質」という言葉だけに重きを置くことはできないが、『チェヴェングール』にも「愛の物質」なる表現がある。プラトーノフにおいて「物質」という言葉はしばしば抽象概念と結びつく。その根本には、彼が創作活動を始めた頃から、変わらず持ちつづけている信念がある。以下は、初期の社会時評からの一節である。  

いったい真実とは、抽象的な概念なのだろうか。否。今や人類の膨大な大衆が真実を欲し、私の身体すべてが真実を欲している。そして身体が欲するものは、非物質的な、精神的な、抽象的なものではありえない。真実とは現実的なものである。「お前の真実がどうしたってんだ!」最初にしゃべった方が言った。「お前は働いてない、存在の物質を体験してないのさ。思想ってのはそこから思い出すもんだ!」(16)
真実とは抽象的な概念ではなく、現実的なものだ。したがって、存在も愛も物質となるのである。この信念をプラトーノフは、「身体が真実を欲する」と表現する。 プラトーノフはほとんど夢想に近かった初期の作品から、年を追うごとに、より日常に密着した作品を書くようになるが、身体へのこだわりはますます強くなっていく。「身体の輪郭の外のものは何一つ民族に属していない」(17)というジャン民族の物語、『ジャン』(1933-1935)、主人公が自分の足から肉を削ぎ取って見ず知らずの相手に食べさせようとする『ごみの風』(1934)など、そのこだわりかたはさまざまであるが、根底に流れているのは同じものだ。彼の身体に対するこだわりは、真実に対するこだわりなのである。若きプラトーノフが夢見た真実とは、革命と「共産主義」の実現であった。

そして、これまで見てきたように、プラトーノフにとって「共産主義」とは、身体の欲するものであり、またそれ自身が新たな身体であるはずのものだった。従って「共産主義」を会得する登場人物、『秘められた人間』(1928)のプーホフは、「全物体が己の身体と血族であること родственность всех тел к своему телу 」を実感する。「お前の真実がどうしたってんだ!」最初にしゃべった方が言った。「お前は働いてない、存在の物質を体験してないのさ。思想ってのはそこから思い出すもんだ!」(18)一方、『チェヴェングール』で先にあげたチェプルヌィは、「共産主義」がいまだプロレタリアたちの胴体の間を埋める物質にはなっていないことを恥じた。さらに彼は、死んだ子供を復活させようとして失敗する。「生命機械」は作動しなかったのである。『土台穴』の登場人物たちは、孤児ナースチャの中に「共産主義」の体現を見出そうとするが、個別の身体の中にあるもの、「死の機械」を通過していないものは、永遠ではない。ナースチャは死に、彼らは行き場を失ってしまった。後者二作品において、新たな身体は結局形成されていない。

プラトーノフにとって、そしておそらくは、革命と内戦のロシアを生きた多くの者たちにとって、「共産主義」は彼らの新しい身体となるはずのものであり、その実感を得るためにこそ彼らは自らの生命を堵したのだった。ところが実現したソビエト連邦で、彼らは新たな身体を、実感することができなかった。M.エプシュテインはその著書『未来の後に』の中で、「この国(ソビエト連邦-久保)は生来、商品や設備や通貨にではなく、リアリティそのものに乏しい」(19)と述べているが、プラトーノフが身体というテーマに生涯こだわったのも、この国が彼にリアルな身体を感じさせてくれなかった、ということなのかもしれない。


  1. Дмитровская М. Антропологическая доминанта в этике и гносеологии А. Платлнова (конец 20-х -- середина 30-х годов) // "Страна философов" Андрея Платлнлва: Провлемы творчества. Выпуск 2., -М.: Наследие, 1995; Семенова С. Мытарства идеала // Новый мир. №5, 1995; Сейфрид Т. Писать против материи: о языке "Котлована" Андрея Платлнова // Андрей Платонов: мир творчества. -М.: Современный писатель, 1994.

  2. Подорога, Валерий. Евнух души: Позиции чтения и мир Платонова // Параллели (Россия? Восток? Запад). Альманах философской компаративистики. Вып.2. -М.: ФО СССР, 1991, С.33-81; [Podoroga, Valery, "The Eunuch of the Soul: Positions of Reading and the World of Platonov", in Late Soviet Culture: From Perestroika to Novostroika, Durham; London: Duke University Press, 1993, pp187-231.]

  3. Гасчев А. К. Поэзия рабочего удара. М.: Советский писатель, 1964, С. 111.

  4. Там же, С. 102-106.

  5. Там же, С. 110.

  6. Платлнов А. П. Чевенгур // Платлнов А. Избранное. -М.: Московский рабочий, 1988, С. 334-335.

  7. Платлнов, Андрей. Голубая глубина. Краснодар: Буревестник, 1922, С. 28.

  8. Платонов А. П. Фро // Платонов А. П. Взыскание погибших: Повести. Рассказы. Пьеса. Статьи. -М.: Школа Пресс, 1995, С. 409.

  9. Платонов А. П. Чевенгур. С. 77.

  10. Там же, С. 198.

  11. Келлер В. Андрей Платонов // Андрей Платонов: Воспоминания современников, материалы к биографии. -М.: Современный писатель, 1994; Скобелев В. П. О народном характере в прозе А. Платонова в 20-х годов // Творчество А. Платонова: статьи и сообщения. -Воронеж: Издательство воронежского университета, 1970.

  12. ザボロツキーはこの作品の着想をフレーブニコフの『ラドミール』から得たと述べている。См. Примечания // Заболоцкий Н. А. Столпцы: Столбцы, стихотворения, поэмы. -СПб.: Северо-Запад, 1993, С. 481;

  13. Заболоцкий Н. А. Столпцы: Столбцы, стихотворения, поэмы. С. 146.

  14. 労働者と機械と動物たちの融合した巨人のうちもっとも知られたものとして、マヤコフスキーの物語詩、『150000000』に登場するイヴァンを挙げておく。またプラトーノフには、実際に人々が一つの身体を感じ、さらに宇宙との合一を求めて地球を去っていくというSF小説がある。См. Платонов А. П. Потомки солнца // Платонов А. П. Чевенгур. -М.: Высшая школа, 1991, С. 399-404.

  15. Платонов А. П. Котлован // Платонов А. П. Государственный житель. -Минск: Мастацкая лiтаратура, 1990, С. 129.

  16. Платонов А. П. Пролетарская поэзия // Платонов А. П. Возвращение. -М.: Молодая гвардия, 1989, С. 46.

  17. Платонов А. П. Джан // Платонов А. П. Избранные произведения. В 2-х томах. Т. 1. -М.: Художественная литература, С. 445.

  18. Платонов А. П. Сокровенный человек // Платонов А. П. Взыскание погивших: Повести. Рассказы. Пьеса. Статьи. С. 168.

  19. Epstein, Mikhail N. After the Future: The Paradoxes of postmodernism and contemporary Russian culture, Amherst: The University of Massachusetts Press, p. 195.